今日の文面は、2012年3月に当時私が
勤務していた県立学校で発行された生徒会誌
に掲載されたものである。
数年ぶりに文章に目を通してみて、当時の
自分は、こんなことを考えていたんだと、
懐かしい気分に浸りながら文面をタイピング
して書き起こしてみた。
以下、そのまま転載。
「わたしが物理を選択した理由」
たった今、この文章の1行目に視線を走らせた君。君はとてもマニアックな人間である。今年4月に○○高校に赴任してきたわたしは、はっきり言って学校での認知度はかなり低い。おそらく大半の人が、このページに進んでわたしの名前を見た瞬間、「誰それ?」もしくは「興味ない!」といった感じで素通りしたことだろう。良く言えば、もはやここまで文章を読み進めてしまった君は、もはや〇高通と言えるのではないだろうか。母校を愛するが故に、〇高の全てに興味を抱いてしまう君。これからも学業やクラブ活動に励み、○○高校の卒業生として、今後、社会の第一線で活躍することを期待している。
少し話が逸れたので本題に移ろう。
わたしは大学と大学院の合計6年間、化学分野を専門に学んできた。教育実習の時も、母校で化学を教えていた。ちなみに、その時ついたあだ名は、「モル先生」である。理科の教員として、物理・化学・生物のいずれも教える資格が私にはある。しかし、前任校は進学校ではないばかりか、物理という科目すら存在していなかった。
そして、今年○○高校に赴任してきて受け持った科目が1年生の理科を週3時間と、なんと3年生の物理を週5時間‼!振り返ってみるとまぁ酷な仕事を与えてくれたものだと思う次第であり、教育実習生レベルの授業しかしてやれなかった3年生には非常に申し訳なかったと思う。
こんな過酷な状況を生み出した責任の一端は、実は私にも存在する。それは、わたしがドMだからではない。いやもしかしたら、そうかもしれない…。
私は高校時代、定期考査の最終日の午後に決まってバッティングセンターに通っていた。飛んできたボールをかっ飛ばす。いわゆるストレス発散である。余談だが実は、この時わたしのバッティングに付き合ってくれた数少ない友人が、1年8組担任の△△先生の兄である。その時の思い出である。毎回初球からバックスタンドまで持っていくつもりでいるが最初の内はなかなかいいバッティングができない。それが、だんだん球数が増えてくるに従って、ボールを芯で捕らえられるようになってくる。そしてある時、今日1番のスイングで、最高のバッティングができる。「こうやってスイングすればいいんだな!」と思って、次のボールを待ち受ける。「今度は、もっと遠くへ飛ばしてやる!!」と、意気込んで、渾身のスイングを試みたものの、結果は空振り。
君たちはこんな経験をしたことがないだろうか?クラブ活動などで、ある時ふといい動きが出来て、そのイメージを忘れない内に、もう一度同じ動きを繰り返そうとする。しかし、なぜかうまくできない。これに似た現象を物理学の世界では、ハイゼンベルクの不確定性原理といい、観測という行為自体が観測される結果に影響を及ぼすという。これは、高校の範囲を超えた話である。理科の授業で、物質を構成する最小単位を原子といい、その原子の中心には原子核があり、その外側を電子が飛び回っていると習ったと思う。ハイゼンベルクの不確定性原理というのは、その原子核のまわりを飛び回る電子の動きを観察しようとする時、その行為によって電子の運動は影響を受ける。つまり誤差が出てしまうということである。
再びバッティングセンターの話に戻ると、次もいいバッティングをしようという気持ち自体が、次のスイングに影響を与えてしまうという風に解釈できる。ボールを飛ばすという行為は、高校で習う力学の範囲で説明できる。しかし人間の心は繊細。この繊細なミクロの世界に立ち入ると、もはや今までの力学の常識が通用しなくなる。物理の世界では、日常生活における力関係をニュートン力学(もしくは古典力学)、そしてミクロな世界における力学を量子力学という風に分けている。
どんなスポーツでも、動作において正しいフォームを身につけることが大切である。正しいフォームは、指導者もしくは先輩が教えてくれる。しかし、仮に正しいフォームを理解したとしても、実践では使い物にならない。理解して意識的に使うのではダメなのである。無意識の内に瞬時に行える動作でなければならない。この無意識の意識とも言える動作を身につけるために必要なもの、それが反復練習である。最初は、意識的に動くからどこかぎこちない。それをがむしゃらに繰り返していくと、いつの間にか意識が飛んでいく。そう、それが無意識である。ただ、スポーツとは難しいもので、だらだらと反復練習を繰り返してしまうものもいる。それは、ただのあほである。そういう人間は、スポーツに対する情熱という意識が飛んでいるのである。
もしかしたらクラブ活動において、しんどくてつまらない練習が反復練習かもしれない。ただ、はっきり言って反復練習を避けたチームは強くなれない。そのことをクラブ活動に励んでいる生徒には知っておいてもらいたい。
さて、ここまでの話は何とか理解してもらえたかもしれない。しかし、はっきり言って量子力学という学問は非常に難しい。大学での学業をおろそかにしてきた私は、この学問分野をほとんど理解していない。
ここで、結論に入ろう。わたしが物理学を選択した目的。それは、量子力学を学ぶためである。何故、量子力学を学ぶのか。それは、古(いにしえ)の時代まで遡る。その昔、日本には武術の達人が存在していた。宮本武蔵もその1人である。その頃の人たちの勝負は命がけである。戦国時代である。敗北は死を意味する。そういった者たちが辿り着いた境地は、「無」である。これが無意識の無につながるものかどうかはわからない。今現在、この達人レベルの人間がいるのかどうかは定かではないが、昭和の時代を生きた合気道の達人の技をテレビで見たことがある。150cm前後の小柄な人間が、2m近くの大男を軽々と投げ飛ばしているのである。まさに、指先1つでダウンなのだ(北斗の拳を知らない人すいません)。合気道のことはよくわからないが、合気道を言葉で理解すると、気を合わせた武道と解釈することができる。そうなのである。気=心と解釈するなら、武術の達人はまさに紙一重の繊細な世界で勝負しているのである。この達人たちの運動原理を解釈するためには、量子力学の知識に裏打ちされた理論が必要になってくるのではないかと思い至ったのである。
わたしは大学卒業後、三重大学アメリカンフットボール部のコーチとして今もチームに在籍している。アメリカンフットボールは日本ではマイナーな競技である。毎年集まってくる部員は素人であり、スポーツセンスのない人間たちである。そしてチームは現在低迷中である。しかし、この達人たちの動きを理論的に解釈し、スポーツ理論としてチームに還元することができるなら、東海圏だけでなくチームを日本一に導くことも夢ではない。もうすぐ、実質的な物理教師としての1年目が終わりを告げようとしている。それはわたしにとって、日本一への挑戦の第一歩を踏みしめたに等しい。