七夕の記憶と金融教育
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7月7日は七夕の日。この時になると思い出すのが、小学1年生の時のこと。

笹の葉につるす短冊に願い事を書く授業で、

お金持ちになりたい!

と書いたら、それを見た当時の担任の先生が

お金持ちになりたいなんて、はしたないのやめてください!

と、クラス全体に注意しながら、私を指導したことを思い出します。

さらに追い打ちをかけるように、数週間後の3者懇談において、母親の前でも、この時のことを注意され、

大人(先生)の言うことは正しい!

そう思っていた当時の私は、それから数年間は、とりあえず

おもちゃ屋さんになりたい!

と書いて、大人の空気に忖度するようになりました。

毎年、この時期になると当時のことがフラッシュバックしてくるのですが、やがて精神的に成熟してくると、

お金持ちになって何が悪いんだ!?

と、ぶつけようのない怒りが込み上げてくるようになります。

怒りの矛先は、当時の担任の先生であったり、先生の言うことが正しいと思い込み何も反論できなかった当時の自分であったり、はたまた今更、過去の些細なことに怒りを覚え感情を揺さぶられている今の自分自身であったりと様々です。

何を思って短冊に書いたかは覚えていませんが、

お金持ちになりたいという切なる願いは、今にも通じるなぁ…

と、この歳になってしみじみと感じます。

お金持ちという状態には、個人差があるので誤解を生みやすい表現ですが、今の私が求めているのは、

お金が「ない」もしくは「なくなる」ことによって生じる不自由な状況から解放されることです。

結局のところ、退職を決意した自分自身を不安に陥れているものは、経済的不安。つまりお金です。今、手元に十分なお金があれば、そのような不安に苛まれることはないでしょうし、これは私だけはなくて、多くの人に共通することのように思います。

家族全員が生きるために十分なお金があれば、好きでもない仕事を我慢して続ける必要もないでしょうし、多くの人が安定した身分(職業)を求めるのも、死ぬまでお金に困らないためのもの。

金、金、金と、書くと、当時の刷り込み教育のおかげで、今でも「お金に執着するのはよろしくない。」という感情が込み上げてきますが、冷静に世間を見渡してみると、

結局のところお金に縛られているなぁ…

と感じます。

決して、「世の中お金が全て!」と言いたいのではありません。

そうではなくて、

人生の幸福は、「お金の制約から解放されたときに見えてくるもの」ではないかなぁ…

そのように思うわけです。

生活するためにはお金が必要だから、自分の時間を切り売りしなければならない。それが行き過ぎると、自分らしく生きるための時間さえも無くなってしまう。

「忙しい」とは、「心を亡くす」と書いて表現するのは、誠に見事なもので、私も含めて、お金のために、自分自身の心を亡くしてしまっている人が一定数いる以上、お金に関する教育(金融教育)は必要だと思う次第です。

お金に執着するのは、はしたない!

だからこそ、お金に困らないための教育が、いまだに学校現場に浸透していないのはおかしなことです。

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