高校教育の現場より:適応障害の教師
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4月末に起こった生徒指導案件がなかなか収束の方向に向かうことなく、ほぼ平行線をたどるような状況に陥っていましたが、ここにきて急転直下。一定の方向に向かって事態が進展することになりました。

とは言っても、生徒指導部からの指導の枠が外れるだけで、生徒のゴールは進路実現です。まだまだ担任として、なすべきことは山ほどあります。

適応障害の教師

この件については、ここ数日私自身、かなり負担を感じるようになっていましたが、よくよくその負担の原因を探ってみると、

生徒対応することに対するストレスではなくて、「他の教員と連携を図らないといけない」ことに対して多大なストレスを感じている自分がいる!

ことに気付きました。

やってしまった行為自体は反省すべきことですが、そもそも(私が勝手に妄想している)教育システムが現代社会に適合するようになっていれば、起こることがなかったであろうことと思いますし、

まぁ、この指導を通して色んな先生に忖度しないといけないこと!
(↑職場の先生方はみんな良い方です。ただ、自分との価値観の違いに合わせないといけないことに対する一定のストレスを私は感じています。一種の適応障害なのかもしれません。)

生徒を快方に向かわせることが、指導の最重要方針とするのであれば、担任と生徒がマンツーマンで対応した方が効率的なのですが、学校全体で対応しているという体を装うとなると、関係部署方々と連携しないといけません。そうすると、担任は生徒以外のところで膨大な時間を消耗します。それだけでなく、他の先生にも面倒を見てもらっていることになるので、一定の礼は尽くさなければなりません。

自分のクラスの生徒がやってしまったことなので、担任としてそれほど強く出ることもできず、自我を押し殺して周囲の環境整備を尊重すると、本来、その他大勢の生徒のために費やすべき授業準備の時間がそがれ、行き当たりばったりの授業を連発しそうになってしまう。

生徒が退屈しない授業を行うからこそ、学校が荒れることなく落ち着くものである!

という持論があるからこそ、他の人より時間を割いて、より良い授業を提供する努力をしているつもりですが、自分のうかがい知らぬところで問題が発生して、担任であるが故にその業を背負わなければならないというのは、何とも理不尽なものを感じます。これはエゴなのでしょうか…??

自己の主張を優先させようとすると、一定数の同僚の心象を害してしまうことを理解しているので、和を尊ぶことを優先しています。しかし、人生経験を経る中で「いい人は搾取される。」ことを学んでしまったので、

いよいよその構図から脱出するときがやってきた。

そんな心境です。

とりあえず生徒のことは担任がきちんとするから、私を自由にしてほしい!

ただそれだけです。

この1件を通して、

自分は企業に就職しても、その性格の優しさ(甘さ)から、出世競争でライバルに踏み台にされてしまう!
もしも、踏み台にされるのであれば、同い年のおっさんおばさんよりも、有能な若い世代の踏み台になれた方が本望である!

ということが、私が教師になる選択をした動機だったことを思い出しました。

言葉は悪いですが、現状の学校組織において、私の労働力が、一定数の教員の身分を支えるために搾取されている節があります。
これだと私が教師を志した動機に反するところがあるので、退職するのも必然のことと思います。

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