今日は久しぶりに学校に行きました。
この1週間で見ると、先週月曜日が祝日で、火曜日水曜日は出勤して、それから4連休だったので、
と思いました。
今、日本は失われた20年とか30年とか言われてて、経済的に衰退し続けてますが、贅沢さえしなければ、心にゆとりが持てる生活は可能であることを考えると、
と思います。
世間ではコロナの影響もあって閉塞感が漂ってますが、幸か不幸かは心の在り方次第のような気がしてきました。
私は働くことが嫌いなのではなくて、
これは仕事だから!
と納得できないことに関わらないといけないのが好きではなくて、今までは
と言い聞かせてきましたが、
ということに、気付き始めました。
生徒からすれば、心を無にして働いてる大人に魅力を感じるはずがありませんが、公務員は全体の奉仕者なので、全員と平均的に関わるというか、喜怒哀楽の感情をフラットにすると、どうしても心はフラットというか、無になってしまいます。(これは私の場合ですが…。)
出勤してから、履歴書やら調査書を進路指導室に提出したところ、色々を手直しが必要ということで返却されました。履歴書の住所が住民票と一致してないということで、書き直しの生徒が続出です。
これは完全に私のチェックから漏れてました…
別に住所を間違っているわけじゃなくて、「何丁目何番地ってのをハイフン(ー)つけて省略して書くな!」ということなのですが、履歴書作成の際に、ここを必ずチェックしなければならないということをスルーしてしまいました。
生徒用の配布資料には、「住所は住民票の通りに記入する」という文言が書かれてるのですが、文面とか口頭で説明を受けてても、うっかりしてしまう生徒は必ずいるので、ここはきちんと担任のチェック機能を働かせておかなければならないところだったのですが、それが出来てませんでした。
今日は、なぜ住所のチェックが出来なかったのか、つまり、生徒への配布資料の重要事項が自分の頭の中にインプットされてなかったのかを反省してたのですが、
問題の資料を配布したのが7月前後で、私は日々の授業やらテスト問題の作成に気をとられていて、8月業務に対するアンテナが低くなっていた。
これが原因のようです。
8月現在の仕事をきちんとイメージ出来てたら、生徒に配布する資料の内容にパッと目がいった時に、
そういう心理が作用したはずです。しかし、それが機能なかったのが今回です。
本校3年目ですが、3年生の進路指導は初めてなので、学校独自のスタイルに定着できない内は、もう少し意識の配分を、教科指導から担任指導の方にかけておかなければいけないところでしたが、その配分のかけ方を誤ってました。
次は…というか、もう次はないのですが、仮にもう一回クラス担任をしたときは、同じ轍を踏まないと思いますが、未然に防げなかったのが悔しい限りです。