目次
- 1 大阪市の吉村洋文市長は、教育現場の事情を全く理解していない。
- 2 たとえ教師の授業力が上がったとしても、子どもの学力が向上しないこともある。
- 3 生きるだけで精一杯であるから、子どもを学習塾に送りこむことはおろか、仕事から帰って疲れ切った状態では、とても子どもに寄り添って勉強を教える体力など残されてはいない。
- 4 そして、家庭の収入が子どもの学力に強く関係していることに加えて、家庭の収入状況によって、生活拠点は異なっているのである。
- 5 むしろ大変なのは、安心して授業を受けられる環境にすら置かれていない子どもたちを多く抱える学校であり、賞与に差をつけるのであれば、そのような学校に勤務する教師に対する待遇をよくした方がよい。
大阪市の吉村洋文市長は、教育現場の事情を全く理解していない。
たとえ教師の授業力が上がったとしても、子どもの学力が向上しないこともある。
例えば、片親で尚且つ収入が学生のアルバイト並しかない家庭だって中には存在する。そのような家庭では、家計を支えるだけで精一杯で、家庭が果たすべき子どもに対する適切なしつけがなされない。
そのような状況下においても立派に成長する子もいるだろうが、一度道を踏み外してしまうと、それを正しい方向に軌道修正することが非常に困難である。
生きるだけで精一杯であるから、子どもを学習塾に送りこむことはおろか、仕事から帰って疲れ切った状態では、とても子どもに寄り添って勉強を教える体力など残されてはいない。
そのような精神的に限界に追い込まれた状態で毎日生活していると、日常生活で蓄積したストレスが子どもに向かってしまうこともある。不必要な叱責や暴言だけでなく、育児放棄、体罰、虐待等々。
つまり、学力を上げること以前に、落ち着いて授業が受けられる環境でさえ揃っていない子どもも一定数存在するのである。
そのような子どもたちに対して、素晴らしい教材、素晴らしい発問からなる素晴らしい授業を与えても、全く心に響かない。
子どもたちもその保護者と同じく、毎日を生きるために精一杯なのだ。
将来のためとはいえ、読み書き、算数を習う心理的余裕などない。
そして、家庭の収入が子どもの学力に強く関係していることに加えて、家庭の収入状況によって、生活拠点は異なっているのである。
裕福な家庭はセキュリティレベルの高い高級団地に生活して、よその家庭の金銭的トラブルに巻き込まれないようにリスクヘッジするだろう。
従って、市町村単位で設立している公立の小中学校においては、たとえ学力試験によってふるい分けがなされていなくても、地域によって学力差が生じている。
このような状況下で学力テストを実施すると当然、裕福な家庭が多く生活する地域の小学校における平均点は、周辺の小学校の点数より高くなるであろう。
しかし、それは教師の授業力によるものではなく、家庭の経済力に裏打ちされた教育力がなせる業である。これをもって教師の待遇に差をつけるのはフェアではない。
むしろ大変なのは、安心して授業を受けられる環境にすら置かれていない子どもたちを多く抱える学校であり、賞与に差をつけるのであれば、そのような学校に勤務する教師に対する待遇をよくした方がよい。
荒れている学校かどうかなど、教師間の口コミなどで情報は出回っている。
教師だって、指導に手のかからない子どもたちと楽しく授業がしたい。
市町村の人事異動によって教育困難な学校に配属され、そして、賞与が
他の学校の教師に比べて下げられる可能性があるのであれば、そのような
学校に勤務することは希望しない。
たかが数万円程度の差によって、教師のモチベーションは左右されることはないが、賞与に差をつけるということは、勤務評価を行う者がどれだけ誠意をもって教育現場を見守ってくれているかの指標として現場の教員は受け取るのである。
仮に学力調査の結果を教員の評価に反映するにしても、子どもたちの家庭環境や潜在的な学力を測定するなど、調査結果だけで良し悪しを決定するべきではない。
私は三重県の高校教師であるが、三重県や市の代表からこのような安易な発言がなされるだけで、その人物に対して不信感を抱き、そして軽蔑するだろう。
全国学力調査の結果について、校長や教員の評価やボーナスの額に反映させることに関しては、断固反対である。