はじめに
前回、秀岳館高校の学校組織の仕組みについて(秀岳館高校①)において、秀岳館高校での体罰問題を通して、学校組織の仕組みについて解説させていただきました。
4月の下旬頃、サッカー部のコーチが生徒に対して暴力行為に及んだ動画が、SNSを通じて拡散されることで、問題が一気に問題が表面化します。
その火消しに走ろうとしたのか、突然、生徒たちからの謝罪動画がSNSに投稿されるのですが、これがあまりにも不自然な内容でさらに炎上してしまい、数日の内にこの謝罪動画は削除されます。
一体この動画はどういう意図で配信されたのか??
当初は「部員が自主的に投稿した」とされていましたが、後日、この謝罪動画の撮影に、監督が立ち会っていたことが明らかになります。
チームの最高責任者である監督は、テレビ出演して「このような体罰は過去にみたことがない」と過去の暴行を否定するわけですが、学校内での調査を進めていく内にそれが嘘であったことが判明しました。
さらに段原監督が暴行動画を拡散させた生徒を強い口調で責める音声データまでもが流出してしまい、火消しどころか、火に油を注ぐ結果になってしまいました。
この一連の騒動で、ごたごたしている間に、
実は高校入学前にサッカー部の練習に参加していた中学生が、上級生から暴行を受けて、それが原因で入学辞退に追い込まれていたことが発覚したり、
暴力行為を否定していた段原監督自身が、実は過去に体罰に及んでいたことが次々と明らかになり、結局、監督自身も5月17日付けで学校を退職することになります。
ということで、1人のコーチの部員に対する暴力行為によって、サッカー部の存続までもが危ぶまれることになってしまったわけですが、もう一度問題の原点に戻って、
今回は
ということについて考えていきます。
「体罰がなぜいけないのか?」と聞かれた時に、皆さんはどのように回答するでしょうか??
とか
という回答が大半だと思います。
しかし、一方で、
最近はかなり少なくなってきましたが、そのように考えている人も一定数います。
実は、私も体罰は必要だと思っていた時期がありました。
体罰自体は、学校教育法の第11条に「体罰を加えることはできない」とされているので、法的にも学校現場において体罰は認められるものではありません。
昭和56年の東京高裁の判例で、体罰とは「懲戒権の行使として相当と認められる範囲を超えて有形力を行使して生徒の身体を侵害し、あるいは生徒に対して肉体的苦痛を与えること」と、示されています。
だから、学校現場においては肉体的苦痛を与える体罰は認められない訳ですが、子どもを育てる親の立場であったり教師の立場にあると、
という教育方針のもと、法律の壁を越えて体罰に及んでしまうケースがあります。
そこには生徒対する憎しみというよりは、生徒のために敢えて法律を破ってまで暴力行為を行使しているんだという、愛情の裏返しとして体罰を容認してしまう感情がはたらく訳です。
それで今、私自身が体罰についてどのように考えているのかというと、
そのような立場でいます。
では、なぜ体罰がいけないのか?
ここの部分をきちんと理解しておかないと、再び学校現場で体罰を用いた指導を繰り返してしまうことになります。
■体罰がなぜいけないのか?
ここでご紹介したい方がいるのですが、解剖学者の養老孟司さんをご存知でしょうか?
元東京大学医学部の教授で、長年大学生を指導された、バカの壁の著書で有名な方です。
ある日の講演の様子をYouTubeで拝見したときに、私自身、「なるほど!」と思ったのですが、
その講演でこのようなことを言いました。
それで、北里大学で講義をしているときに、養老孟子さん、ある学生に、次のような質問をしました。
コップの中に水が入っていて、この中にインクを一滴落とすとインクの色が消える。
どうして消えるんだ?
と聞くと、その時の答えが、
と答えたらしいです。
高校までの教育を受けてきた理系の学生です。
その回答が養老孟司さんにとっては、とても印象的だったみたいです。
それで、何が印象的で、「なるほど!」と思ったのかというと、
そういうふうに思えば考えないで済む。
ということにそこで気づいたんです。
何が起こっても、そういうものだと思えばいいのであって、わからないことにいちいち悩む必要がない。
そのようなことをどこで教わってきたかというと、今まで通ってきた幼稚園、小学校、中学校、高校です。
先生たちが色々言っても、そういうものだと思えば、一切考えないで済むんです。
なんと、
そういうことに気付いたという訳なんです。
だから、悪いことをした子どもに、親がガンガン怒ったときに
子どもはどう聞いているかというと
ということだけ覚えているんです。
中身を覚えているかと言われると全く覚えていない。その証拠に、また次の日に同じことをしているから。
つまり教育というのは、形なんだと。
親が怒っていれば、怒っているという形が入る。
そうするとその子が大きくなったらどうするかというと、多分、将来自分の子どもに怒るというんですね。
中身はどうせ聞いていない。移るのは形なんだと。
中身が問題じゃなくて、
養老孟司さんはそのように主張するわけです。
私もこれを聞いて「なるほど!」と思いました。
私自身の教員生活を振り返ってみて、同じ学校の同じ学力を持った生徒たちに授業をしていても、よく怒鳴る担任の先生のクラスで1年間授業をしていると、だんだん指示が通りにくくなってくるんです。
授業をしていてもどうも落ち着きがなくて、私語が多い。
私自身の指導力の問題かと疑ってみるんですが、全く同じ内容で全く同じ接し方をしていても、
なんていうことがよくあるんです。
落ち着きのないクラスやそこにいる生徒というのは、先生たちに怒鳴られる内に、次第に怒鳴り声にしか反応できなくなってしまうんです。
つまり、
ということが、そういうものだと次第に刷り込まれていくんです。
それで、先生が怒るってことは怒る直前までは多少なりとも騒がしかった訳ですから、
ってことも無意識に覚えていくんです。
というマナーを覚えるのではなくて、
そういうものだと刷り込まれていくわけです。
多分、怒鳴られることに慣れてきた生徒たちは、将来子どもが生まれた時に、家でうるさくしてたら、怒鳴って静かにさせようとすると思います。
子どもたちは、目の前にいる大人たちがどういう大人であったか、その振る舞いをみて育っていきます。
■秀岳館高校での体罰問題を振り返ってみると…
そのようなことを踏まえて、今回の件を振り返っていくと様々な事が見えてきます。
まずは、事の発端となった、生徒に暴行を加えたコーチ。
生徒に暴行したということだけをみると、なんてひどい指導者なんだということになりますが、このコーチの生い立ちを、少し想像してみると、
ということが透けて見えてきます。
もしくは、家族から日常的に虐待に近い体罰を受けていたか。
そうやってみていくと、
という気がしないでもありません。
そして、暴力行為が大人から子どもへと連鎖することで、
今度は、サッカー部の生徒が、高校入学前に練習に参加していた中学生に対して暴行を働きます。
という大人の姿勢が子どもたちにも伝わっていくわけです。
たとえ不適切な言動を正すための体罰であったとして、「悪いことをしてはいけない!」という反省と共に、生徒たちには「悪いことをした子どもには殴って聞かせてやるものだ!」という習性が身についてしまいます。
暴力に頼らなくても子どもを躾ける手段はありますし、学校には様々な事情を抱えた子どもがやってきます。
中には両親から虐待に近い暴力を日常的に受けている子もいます。幼少期に虐待を受けてきた子は、高い確率で将来自分の子どもに対しても虐待をすると言われています。
そういった子どもたちに対して、暴力以外にも子どもたちを躾ける方法があることを伝えられるのは、学校現場で子どもたちと関わる教師だけです。大人から子どもへと連なる負のスパイラルを断ち切れるのは教師だけなんです。
秀岳館高校サッカー部のコーチによる生徒に対する暴力行為に端を発して、上級生から下級生への暴力、そして監督の過去の積み重なる暴力的指導と、様々な問題が噴出してきたわけですが、
これを単に当事者だけの責任追及だけに終わらせるのではなくて、そもそもなぜ体罰がいけないのかということを視聴者の方々にも考えるきっかけにしてほしいと思い、私自身の考えを配信いたしました。